keinoblog's blog

ながおけいのブログ

5か月営業してみて思ったことと花の美しさについて。

昨年10月に営業部配属になって早5か月が経ちました。

北海道の寒さと凍結した路面にもすっかり慣れ、毎日お寿司食べながら楽しく仕事してます。

 

この5か月で恐らく200商談近くさせて頂き(UUでありません)、たくさんの先生方とお話させて頂きました。日々先生に教えて頂きながら、振り返ると短期間の中でも色々あり、気付いたこともありました。

 

■ 先生によって理解の仕方が違う

営業マンとして伺うなか「商品説明」の場面が必ずありますが、この「商品説明」がとても面白く。商品の価値を理解して頂くために説明するわけですが「理解の仕方」は先生のよって本当に様々だと気付きました。

 

ある先生は、
「この商品はXXという課題を解決するために作りました!」と商品の一般的な価値を説明することで「なるほどね!」となるし、

 

ある先生は、
「この商品は例えば御校のXXといったシーンでご活用頂けます!」と商品の活用シーンをありありと説明することで「なるほどね!」となるし、

 

ある先生は、
「この商品の設計はXXとなっていまして、XXが特徴なんです!」と商品の仕組みを具体的に説明することで「なるほどね!」となるし、

 

ある先生は
「この商品は他社様の商品とXXが異なるものです!」と既存商品との比較を説明することで「なるほどね!」となるわけです。

 

同じ商品の同じ価値について説明してるのに「なるほど!」が生じるタイミングは先生のよって様々。

 

なんだか整理できてないですが、

概念、シーン、構造、比較…

人の「理解の仕方」にはいくつかキーワードがありそうだと分かりました。

 

本当は「この人はどんな理解の仕方をするのか?」分かればいいのですがやってみないと分からないので概念から活用シーン、商品設計、他社商品比較までとにかく色んな話を早口で分かりやすく飽きないように説明するスキルがこの5か月で伸びまくりました(笑)

 

■ 人には7つの理解の仕方があるらしい

人の「理解の仕方」といえば、昔読んだこの記事が面白かったです。(英語ですが…)

 

人のによって「得意な理解の仕方」があるとのことで、

・ 視覚的:図や写真を用いたり空間的理解を好む
・ 聴覚的:音や音楽を用いることを好む
・ 身体的:手や体、触覚を用いる事を好む
・ 言語的:口述・記述により言葉を用いることを好む
・ 個人的:一人で学ぶことを好む
・ 社会的:集団で学ぶことを好む
・ 論理的:論理、因果、構造などを好む

と理解のスタイルをまとめてます。(和訳は荒いです)

 

ふと思い出すのが高校の時、みんな色んな勉強方法をとってたなということです。

・ やたらと単語帳を作る人
・ やたらと色ペンを使いノート作りをする人
・ やたらと歌とかゴロを作って暗記頑張る人
・ やたらと友達とテストし合いながら勉強する人
等々。

 

未だに覚えているのが放課後に女子が古文の語彙をダンスと紐づけて暗記して踊ってて、まじでかわいいなと思いながらみてたけど自分の頭には単語の意味が一切入ってこなかったということです。

自分は身体的あるいは視覚的な理解を得意としていないことが良くわかった瞬間でした。

 

少し整理してみると何となく

・ 記事は「情報をどう伝達する」と理解しやすいか
・ 先生の話は「どんな情報を伝達すると」理解しやすいか

という話をしてそうです。

 

■ 仕事の中で「理解の仕方」を意識して話すのはとても大事

とにかく「人には得意な理解の仕方がある」ということはとても大事な観点で、もちろん営業の場面でも大事だし、戦略共有など組織コミュニケーションのあらゆる場面でもとても大事。

 

「こんなにロジカルに説明してるのに何で分からない、伝わらないんだ?」
「こんなに綺麗に図式してるのに・・・」
「こんなに楽しくストーリー形式で説明してるのに・・・」

営業等で説明する側になると自分にとって大事な情報を自分が理解している形で伝達してしまいがちだけど、相手にとって何が大事でどんな伝え方が分かりやすいのか?がないとなかなか伝わらない。

 

また組織内コミュニケーションにおいてはPPT等の資料共有による情報伝達が一般的な手法となっているし(最近は動画共有も増えてきましたが)、「汎用的?な情報を」ということで抽象化された(つまり多くの場合は概念的、構造的な感じの)情報が伝達されるけど、この情報を如何に各メンバーが理解しやすいように先の観点を考慮して再編集してあげるかは中間管理職の重要な役割になりそうです。

むしろこれができないと「言語的」「論理的」な理解を苦手とするメンバーが死んでしまう(極論)。そしてこれはかなりもったいないことだったり。

 

理解するて難しいし理解してもらうてもっと難しいですね。

 

■ 美しい花と花の美しさについて

汎用的といえばこないだ父親が北海道を去るという事で飲んだ時に話した話が印象的でした。

 

昔中学生だった頃に父とラーメンを食べに行き、
父 「美味しかった?」
僕 「好みではないけど、美味しいのは分かった。」
父 「面白い観点だね。『美しい花は存在する。花の美しさは存在しない。』という言葉を知ってる?」

という会話があったのですが、その時の話が未だに良く分かっていなくて聞いてみたわけです。

 

僕 「美しい花は確かにあって、そこには花の美しさも同時に存在するはず。でないと人はその花を美しいと認識できず、そこに美しい花は存在できなくなるのでは?」
父 「確かにそうだけどこの言葉は『一般的な』花の美しさについてで。美しい花がたくさんあった時にその共通点だったりとかを抽出して『汎用的な花の美しさ』として論じても仕方ないということを言ってるんだよ。大事なのは一個一個の美しい花であって、『汎用的な美しさ』なんてものはないんだ、ということ。」

 

なるほど…。

 

何だか仕方ないかどうかは価値観の様な気もするけど、何だか感じるものがあるわけです。

 

確かに「優れた営業マンたちの営業行動を抽出し型化・マニュアル化する」ことは一定の質担保を実現するうえで有効だけれど、最後大事なのは一個一個の商談であって、一個一個の商談にはマニュアル化できない何かがあって、そこに各営業マンが本気で対峙するしかないのかなと思ったり。

 

大企業病の一つとして「型・マニュアルへの偏重」があるように感じるけど、効率化を図りながらも1つ1つの美しい花つまりは1人1人の社員、人への投資も同時にし続けなければやがてそこに「美しい花」は存在しなくなり、「花の美しさ」という意味と実態のないものだけが残ってしまいそうです。

 

とても抽象的な話でたぶん一部の人にとってはそれこそ理解しにくい話になってしまいましたが、そんなことをスタバで考えてみた土曜の夕方でした。

 

おわり。